先日、九州大学名誉教授・医師でいらっしゃる井口潔さん(98)のお話を聞く機会を得ました。「教育の荒廃をほっておけない!」というお気持ちを強くお持ちになっており、なんと1時間以上話されます(司会が止めなかったらずっと話されていたかも?)。“白寿の遺言”と称して、生物学的な観点で示唆に富むお話をお聞きすることができたので、共有させていただきたいと思います。
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「人間は自然の掟に沿って生きればよい」
自然の掟とは自己抑制のこと。自己抑制とは自分勝手な欲望の抑制。ニューロンが発達する段階で子供のわがままを聞き、我慢をさせていない親が多すぎるので、ニューロンが「わがまま、それでいいのだ」と指示しながら、大脳が作られている。中央の大脳辺縁系(古い脳)が感性、その周りを取り囲む大脳新皮質系(新しい脳)が知性をつかさどる。前頭連合野で統合されて人格が形成されている。知性と感性の素晴らしいバランスによって人格が形成される。温かい愛情の下での凛とした躾(温・凛・厳・畏)によって赤ん坊の大脳辺縁系は生後間もなく、“獣性”から“人間性”に変容する。「生物は環境と調和する」という条件で進化したものなので、人間も「自然と調和」しなければならないのにそれと反対のことをしてしまうのは何故か?これが人間の悩み!萬物(体で生きる生物)は本能で自然との調和を図ることができるが、人間(心で生きる生物)は本能に依らず、自分の意思決定で環境との調和を図らなければならない生物。これは人間にとって極めて難しいことで、先人は宗教や道徳、教育で人間として生きるための規範を与えた。しかし、自我・わがままが邪魔をする。
戦国時代が終わり、全国統一がされた時に徳川家康・秀忠は何を考えたか? 一定の“不”を許容する世界を作らなければならない。生死が隣にある世界から平和な世界に移行した時には人間は堕落してしまう。武士道の継承や参勤交代という制度を作った。寺子屋や藩校を1,200以上設置し、人間教育をした。
敗戦後、日本に平和な時代が来た時、その“不”を意識した政策がされなかった。戦後75年の我が国の人間教育理念空白の実態がたくさんの問題を引き起こしている。
江戸期の武士道を中心とするストイックな伝統的教育の神髄「自己抑制」の本義が現代の教育界に必要である。空手道の“稽古”というが、“練習”とは言わない。稽古とは、型稽古。古人が編みだした営み(芸術など)を反復稽古していると、意識しないで(知性を離れた境地)で体が動くようになる。この境地にはもはや自我はなく、自然の中に組み込まれた自分があるだけだ。純粋経験は古武道に限らず趣味一般(ピアノ等)の稽古でも体験できる。“稽古三昧”に尽くしていれば自然と生き方に自信がつく。
現代人の脳は「知性偏重」に慣らされている。流転の世相に対応して知性を働かすとき、不易・不動の拠り所がないと心の不安はぬぐえない。知性で「うまく生きよう」とすればするほど、抑鬱・閉塞感が起こるのはこのためである。自分の心の赴く趣味の修練において、「稽古三昧の境地」をひたむきに求めるようになれば、自我から解放されて「感性的ニューロン回路」は整備され、感性・知性の調和のとれた不易の内部環境(人格)が育成される。
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ラグビーワールドカップを見ていても、決勝進出した際、選手インタビューで発言されていた言葉の中に「これだけを目標にすべてを犠牲にして」という言葉があり、彼らも“稽古三昧”だったのだろうと思いました。
先生もおっしゃっていましたが、死ぬまで能力開発はできる!私もさまざまな人事に関係する現場を見て、そう思います(残念ながらスピードは落ちていきますが)。子供の教育だけではない、企業で教育しなければならないことが見えてくるように思います。
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